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NO.1「地球の呼吸図鑑」
特別篇:波の呼吸

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満ちてくる――

赤い壁の部屋がゆっくりと姿を現す。

楽器は海と村の音を抱き、仮面は鋭い視線で見知らぬ者を威嚇し続けている。

作られた土地の湿り気、祈り、恐れ――すべてがこの空間に運ばれ、まだ手放されずにいる。

法螺貝の奥で、雨の雫が「ポンっ」と跳ねる。

その気配は、耳には届かないのに、冷たい水が指先に触れた感触だけがふっと胸に広がる。

床が静かに軋み、長い年月を知っている木が、低い声で来訪者を迎える。

引いていく――

ロンドン、大英博物館のアステカの部屋。

血と祈りに染まった祭具も、鮮やかな装飾も、光の中で動かない。

空っぽの殻のように鎮座し、そこにあったはずの叫びも足音も消えている。

耳を澄ませても、風すら吹かない。

それは成仏の静けさか、あるいは何世紀も観光客に覗き込まれ、遠くへ退散したのか――その答えは、この沈黙の中にはない。

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再び寄せてくる――

仮面たちの視線が背中に刺さる。

牙を剥き、目を見開き、形を歪ませた顔は、迷いなく何かを追い払おうとしている。

その視線に耐えきれず、足を引き返す。

楽器たちの前に戻ると、空気が変わる。

音を奏でることは、空間とのダンスだ。

貝殻は低く囁き、木の笛は細い息を風に乗せ、太鼓は船の鼓動のようにゆっくりと響く。

その音は、威嚇ではなく対話のためにある。

かつてトルコの兵士たちは、敵を圧倒するためにシンバルを烈しく鳴らしたというが、この部屋の音は違う。

それは海辺の会話のように穏やかで、時に波のように心を包む。

また引く――

アステカの部屋の沈黙が広がる。

その沈黙は虚無ではない。

「もう語る必要はない」という選択が、壁や床に淡く染み込んでいる。

そこに立つと、まるで長い航海を終えた港に降り立ったような安堵と、同時に二度と出航しないという決意の両方を感じる。

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満ちてくる――

赤い壁の部屋の奥には、海を越えてきた巨大な船。

深い夜の海を思わせる黒い艶をまとい、木目の一本一本が航路の記憶を刻んでいる。

止まっているはずなのに、光の中で今も静かに航海を続けているようだ。

訪れる者は、その鼓動を足元に感じながら、いつの間にかその航海の一員となっている。

引いていく――

アステカの部屋の沈黙が最後の一呼吸を見せる。

それは海が干き、波紋が消え、砂の模様だけが残る時のように穏やかで、抗うことができない。

 

満ち引きは続く。

一方は生き続け、もう一方は沈黙を選んだ。

訪れる者は、この二つの海の間を揺られながら、その違いを胸に刻み、

航海の続きをどこか遠くで始めるのだ。

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